50代になってから実感せずにはいられないこと
脳内の情報処理能力が非常に落ちたことだ。
前から深堀思考傾向があり、過集中なところがあった。
なので疲労すると寝っぱなしみたいな状態が2日間ぐらい続く。
ふく子の基本の性格は多分のんびりな方なのだが、社会人になり、かなり忙しい職場で短時間で仕事をこなそうと努力した結果、脳内多動の回路を育ててしまったと考えている。
3人の子育てをしている間も多動もいいところ。
マルチタスク炸裂であるのだがら50代で脳が疲労するはずだとも思う。
よくやっていたと自分でも思う今日この頃である。
脳内多動の元凶
30代の頃、バリバリ仕事していた時は、まさに仕事の仕方は併行して同時進行。
電話を受けながら、別の事務処理をするといった具合だった。
この能力を育てていくと、こんな現象が現れるようになった。
文字が綺麗に書けない。速記みたいな字になる。
脳みそが繰り出している情報の速度に手の動きがついていかない状態である。
なので「ノートに字を書く」という作業が大変面倒くさい。
その当時いた職場では、電話の内容を「受付伝票」というものに記入して、それから「受電入力」というデーター入力作業があった。20年前の話だ。
ふく子の受付伝票はふく子にしか読めない有様で、仕舞いには電話がきたらPCに直接入力して、それをプリントアウトしたものを受付伝票としてファイルしていた。
結果、電話受注件数は事務所内ではふく子は一番多かった。
よく言えば、頭の回転が速いような作業をしている。
本の速読ができるようになるのは以前知っている内容が含まれているからだとメンタリストのDAIGOさんが語っていた。
なるほどと思った。
それが解釈を間違えると早合点になっていたりもする。
ふく子の子どものことば言い間違いが多い話は、この「早合点」が発動してしまうと、解釈を間違えてしまう。
50代を過ぎてから、若者の言葉も新しく生まれていることもあり、余計頭が混乱することが増えた。
相手の話に集中する集中力が必要だと感じる。
「言葉」での理解がしんどくなる
その点、「画像を見る・書く」というのは楽である。
「聞く」より「見る」の方が情報量が多い。
ふく子の場合、画像は記憶に残りやすい。
それが手話を勉強するきっかけにもなるのだが、そうした経緯もいずれ書いていきたいと思っている。
手話は見る言語。手話と関わるようになって2年半ぐらい経過した。
密度は濃くないながらも、「何となく」のレベルであるが表現、読むことができるようになっていると思う。
ただ、これを万人に理解できるように手話を「言語」に変換しなければならないというのがふく子には難しい。 感覚的に捉えるタイプだからだ。
自分でもびっくりするぐらいの失敗
この間、手話勉強で、ある選考試験があった。
ふく子は試験会場を間違えてしまうという失態をしてしまった。
メールでの案内は説明会で1通、選考試験の申込で1通来ていた。
説明会場と選考試験会場が異なっていたのに気づかなかった。
思い込みの魔物である。
早合点。
未然に防いでいることも多いが、今回はやらかしてしまった。
早めに違う会場にいて、気がづいたので、急いで駆け出し、たまたま目の前にきたタクシーに乗り、選考会場に向かったが間に合わなかった。
3分の遅刻。
そこでもガックリきたわけだが、多分電車で移動をしたら間に合っていたと思うとさらに自分をガッカリさせた。
さらにさらに
4500円のタクシー代に対して、10500円を払い、6000円という正しいお釣りがやってきたのに、「1000円多いよ♪」と返却し、元気に「ありがとう!!」と言って会場に駆け出してしまった。
1000円多く払ってしまった・・・・
運転手さんにお昼をおごってあげた、徳を積んだと、良いことをした、と自分に言い聞かせた。
余計な計算をするもんじゃないと思った。
これは年々多くなるので、「まず、一旦、立ち止まって、落ち着いて」を意識してやらなければならない。
ホントに過去に持っている経験の記憶力がそれなりにあると起こりやすい。
すぐに直結して「分かってる分かってる♪」と脳が先飛ばししてしまう。
目の前にある文章が見えない状態になってしまう。
一回読んだことあるマンガを先飛ばしして読んでしまう感じだ。
これが無自覚に起こるのだから困る。
確認しているつもりが確認になっていないのだから困る。
これも余裕がない生活をしているせいだと。
子どもが3人いるとこうなる傾向があるふく子
今年は子どもの高校受験があり、振込、書類、制服発注、などなど色々と考えないとならないことが多かった。
時間がほんとにあっという間に過ぎていく。
やっている内容は難しいものではないのだ。
要は、予定期日に忘れない様にこなさなければならないという作業が困難になってきたと感じる。
スマホのリマインダー(入力したものを教えてくれる機能)、システム手帳の記入、メモ紙を貼り付けるなどなど、リビングのカレンダーに書き忘れた予定はすっ飛びまくりだ。
3月19日に小学校の卒業式があった。
あれ?中学校入学の書類が何もないことに気づく。
1人目に経験をしているが、記憶の彼方。
義務教育の書類は勝手にやってくるだろうと思い込んでいた。
ここで危機管理能力を発揮しなければならないのは次女の性格である。
彼女は学校の手紙に無頓着な子であった。
2月にあった入学説明会を吹っ飛ばしているので、書類は子どもが持ち帰っていたが、肝心の子どもが「知らなーい」という具合なのでグラグラする。
これも中学校が春休みに入る前に滑り込み解決した。
誰か共感してもらえる人はいるだろうか。
子どもが年度替わりで持ち帰る書類で、自宅から学校までの地図を書く欄がある。
ふく子はあれが3人分あるので「地図」を書くのがとても面倒なのだ。
面倒に感じるのは毎年やっているので、かれこれ自宅の地図は何回書いただろうか。
その記憶が「面倒くさい」を助長させている。
真面目に書きすぎるだけなのだが、あれはほんとうに面倒だと思っている。
一回、グーグルマップを印刷したやつを貼り付けたことがある。
それを持っておけば良いのだが、どっかやってしまうわけで。
それをもう一回作るなら書いた方がマシみたいな世界に行く。
結論:この考えに至る
一人で生活をしていたら、こんなに失敗はないのかな?とも思う。
ふく子は色んなことをやり過ぎているので歳のせいではないと思いたい。
選考会に場所を間違えたのも、対してそのことに集中していない、大事ではなかったのだとも考えることができる。
そう、これは失敗ではなく、起こるべきして起こったこと。
選考会は来年もある。
来年仕留めれば良い。
それまでにやれることをやるだけだ。
というわけで、手話に関する本を図書館で借りてきた。
活字を読むとすぐ眠くなる。
積読にならないように、このブログに活かす目的も含め勉強していきたいと決意するふく子であった。
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