通信大学心理学部に入学する|プロローグ③

色彩講座で感じた「人の心の動き」。 その興味は、ふく子を心理学の世界へと導いていきます。 この記事では、通信制大学で心理学を学び始めたきっかけと、その中で得た気づき、そして挫折の経験までを綴ります。


心理学に興味を持ったきっかけ

ふく子が心理学に関心を持ったのは、色彩講座を通して人の感情や内面に触れる機会が増えたこと、そして父の存在が大きかった。

父はかつて姓名判断士として活動していたが、実際には「占い」というより「カウンセリング「」に近いスタイルだった。

そんな父を見て、人の気持ちや行動の背景を知ることに関心があったふく子は「もっと人の心を知りたい」と思うようになる。

公認心理師への憧れと「Gルート」

当時、新たに設立された国家資格「公認心理師」。

正規ルートでは大学院進学が必要だが、臨床心理士など既存資格者、または公的機関でそれに準ずる仕事についている期間があるといった人に対して、期間限定で「Gルート」という特例が設けられていた。

ふく子が関わってきたものでGルートで公認心理士の試験にトライできないものかと考えた。

まずは大学で基礎から学ぶことを目指した。のちにこの資格取得の道を断念することになるが、学びへの意欲は確かだった。


子どもの頃の好奇心と人間観察

思えば・・という話だが、子どもの頃、父と一緒に時代劇や映画を観るのが好きだった。

なぜなら、戦国時代の歴史もの、戦略もの、なぜあの人はそのような行動をとったのか?ということを質問攻めしていたからだ。

昔、今の5チャンネルが12チャンネルと呼ばれていた時代、12時間時代劇というものをお正月に放映していた。

ふく子はそれを観るのが好きだった。忠臣蔵、白虎隊の話が記憶にある。

石坂浩二さんが金田一耕助役をしていたシリーズも好きだった。

あれは子どもの頃は家族構成、相関関係が良く分からないことがあり、これまでに何度も観ている。

今は分かるが、その当時は親も質問をされても困っただろうと今は思う。

今思えば、それはすでに心理学への興味の芽だったのかもしれない。


通信大学への誤解と入学の決意

20代の頃「何か勉強をしたい」と思い立ち、放送大学で心理学を学ぼうとしたことがある。

これは再度心理学を学びたいと考え始めるまで忘れていた出来事であった。

独学スタイルでテレビ放送で勉強をする。講義がつまらず、モチベーションが続かなかった。

この経験から通信大学は何かしらで家で独学するものだと思い込んでいた。

改めて心理学を学びたくなったことで、東京福祉大学の通信課程を選択、希望条件を満たしていると判断し入学を決めた。

入学後にスクーリング(対面授業)の存在に驚く。

学校に行くのは1科目2日間、それぞれ1日7コマぐらい(7時間ぐらい)あったことに一番驚いた。

なぜならふく子には子どもがいたからである。長時間留守にできるのかと。

午前中ぐらいで終わると勝手に思い込んでいたのだ。

これを正しく理解していたら、ふく子は入学をしていなかったと思う。

良かった勘違いだった。

選択した科目ごとにスクーリング授業参加、レポート提出、科目テストがあり、これをクリアしないと単位がとれない。

ふく子の環境下でやれるか?という自問自答もあったが入学したのでやってみようと決め、5年間での卒業を目指して学び始めた。


子育てと学業の両立

この頃、ふく子は母を引き取り同居していた。

母は自立している状態(介護が必要ない)だったため、夫や母の協力もあり、最初の2年間は精力的に学習ができた。

通信大学には多様な年代の学生が在籍し、福祉関係の仕事をしている人が多かった。

そういった人々との交流は面白く、新しい視点を得る機会となった。

心理学を学ぶことで「自分を客観視する力」が養われ、感情が揺れたときも「どうしたの?」と自分に問いかけ、冷静に対応できるようになった。

コロナ禍と学習環境の変化

入学して3年目の時、新型ウィルスコロナの影響でスクーリングはZoomに切り替わった。

学ぶ楽しさは減り、パソコン越しの講義に孤独を感じた。

学びのペースも落ち、モチベーションが徐々に下がっていくことになった。


スクールカウンセラーへの違和感と発見

心理学の勉強の一環で、子どもの通う小学校のスクールカウンセラーに相談をしてみた。

どういった対応、受け答えをするのか知りたかったからである。

しかし「こんなもの?」という印象を受ける。

悩みを抱える人は問題解決を求めているのに、スクールカウンセラーの対応は具体的な答えがなく、親へのアプローチに終始していた。

それは子どもが抱えている悩みなのか?それとも親の悩みなのか?

この経験から「子どもの問題ではなく、それに不安を感じているのは親である」という視点を得る。

また、3歳児健診で「いずれこの子はが学校の先生を困らせるかもしれない」と指摘された自分の子どもの行動を観察していたが「知能的な問題ではなく、ただ個性的なだけだ」という考えを持つようになった。

「どのような環境にいるのか」というのは大事なのだと気づくことになった。

環境の受け止め方次第で人の見え方は変わる。そんな学びがあった。


心理学への情熱の変化と現実

心理学を学ぶ中で、人の心の動きを数値化し、診断や分析する手法に疑問を感じるようになった。

遺伝子、脳機能、環境などが絡み合い、決まった答えのない世界に足を踏み入れるうちに「結局、人は自分が信じたいものを信じるのでは?」という思考に至った。

心理学も占いや血液型診断のように「当たっている」と人が感じた瞬間から意味を持つのかもしれないと考えるようになった。

そう気づいたことで、心理学に対する情熱が冷めてしまった。

PTA活動で見えた自分の特性

ちょうど大学入学を決めた時期から小学校のPTA活動にも3年間関わっており、それが学業に割く時間をさらに奪った。

その当時は子ども1人につき1年はPTA活動に従事するといったルールがあった。

やらなければならないが学業とは別の思考を取られることになった。

ここでも発見があった。

ふく子は自分だけのことでは行動ができない。

その当時も今も「子ども」がいるから頑張れるのである。

何かにつなげたいという欲がでるのは、誰かのためなのだ。

PTA活動で分かったことがある。

PTA活動の3年間で、実は自分は勝気な部分があるのだとビックリした場面があった。

基本ふく子は一歩後ろでサポートしている方が向いている自覚があったが、人を率いるポジションのついた場合、戦う必要があると考えたら前に出れる資質がある。

環境の影響を受けやすいのかもしれないと考えた。

PTA活動は経験としては良かったが、もう二度とやりたくはないとも思った。

ふく子は抱え込む傾向がある。これも自分を知るきっかけになった。

子どもたちを守るための活動の実態を知ることができた点では意味があり、この世界は誰かの善意で守られているとも感じることができた。


休学、そして退学へ

4年目で1年間の休学を決断した。

レポートを書くには本を読む時間と集中力が必要だったが、育児と家事、母のこと、他にも考えなければならないことがあり、環境が整わなかった。

最終的には退学を選択することになった。

ふく子には「興味がなくなると深掘りできない」という欠点があった。

それでも、自分だけの時間が取れていたなら、学問のことだけに集中できていたらなら卒業はやはりしたかったと今でも思う。

子どもを成人させてから60歳になってからでもできる。そう考えた。

その時はもっと良いレポートが書けるような気がする。


色彩講座での気づきと自己肯定感の変化

学業は途切れたが、色彩講座は細々と続けていた。

ある受講者から「先生は結婚されているの?そう、やっぱりそうよね。だからよね」と言われたことが印象に残っている。

その言葉の意図は伝えてきた本人にしか分からないが、当時のふく子は「専業主婦の道楽的な講座活動」と捉えた。

しかし今なら「ふく子は幸せそうに見えたのだろう」と考える。

昔よりも自己肯定感が高まっている証拠かもしれない。

講座では、受講者の服装や色選びから内面が少し見えるようになり、色と心の関係性への理解も深まった。

自分自身も鮮やかな色を取り入れることで気分や表情に変化があることを実感している。

心理学の知識が加わったことで、気持ちの揺らぎにも冷静に対処できるようになっていった。


この経験で学んだこと

1.興味や好奇心は、どんな年齢からでも挑戦する力になる
 通信大学での学びは、年齢や環境に関係なく「学びたい」と思った時がスタートだという発見があった。

2.自分を理解する力は、他人への優しさにつながる
 心理学を通じて「自分の感情の扱い方」を知ることで、他人の発言や行動にも冷静に向き合えるようになった。

3.「誰かのため」が原動力になることがある
 子どもがいるから頑張れる。自分一人では諦めそうなことも「誰かのため」と思えたとき、人は想像以上の力を出せると気づいた。


心理学を学んだことで、過去の出来事に意味を与え、自分の感情とも少しずつ向き合えるようになったふく子。
しかし、そんなふうに自分を整え始めた矢先、ふたたび人生の重荷がのしかかる──
次回は、母の持病とふく子の葛藤について綴ります。

次回:母の持病とわたしの葛藤|プロローグ④

コメント